ヒゴタイ里の民宿村

「産山民宿村」

ヒゴタイ
※ヒゴタイ・・・瑠璃色の球を天に向かって持ち上げたような花を付ける。

古里に華を咲かそう
 引用から始めたいと思う。 「旅館やホテルと比べて規模が小さく、施設内容も簡素であるが、地場の産物による家庭料理や家族労働による親しみやすいサービスを特色としている」「観光客の来訪が特定の季節に集中するような場所、 あるいは本格的な宿泊施設の経営が可能なほどの観光客の入り込みを期待できない場所に多い」云々。  「地場の産業による家庭料理」と「家族労働によるサービス」、そして「観光客の入り込みを期待できない場所に」とは、まさにここでご紹介する民宿のことである。 その名も「民宿村」。いやあ、その虚飾なき一直線の名称には感動さえ覚える。
 一路めざそう。「ヒゴタイの里」と呼ばれる産山村へ。
 北に九重連山、南に阿蘇五岳を望む同村の田尻地区に「村」はあった。その名の通り民宿が軒を連ねている。 その数6軒(うち1軒は休業中)。30年前、地区の農業者たちが手を取り合って始めた、熊本県内でもっとも古い民宿である。 「グリーン・ツーリズム」などという妙チキリンな言葉がなかった時代、すでにそこでは舶来のその概念が意味するところをめざした人々がいた。 都市と農村の交流を促進しようと奔走する精神があった。
拍手喝采
明日への好機は”東回り”からやってきた。
 井典吾さんは、詳細に書き記した自身の記録帳を見ながらおもむろに話し始めた。 産山の「民宿村」を立ち上げたちゅうしんじんぶつであり、6軒のうち1軒、民宿「山の里」の初代経営者だ。現在は息子夫婦に経営を譲り、悠々自適の身である。
 大正12年生まれの井さんの話は、やはり戦後を基点とし、昭和30年代から熱を帯びる。 戦後の食糧不足で増産増産の掛け声のもとにあった20年代。 その時期を乗り越え30年代になって「客が流れだしたわけです」。つまりは生活のよとりとともに人々が観光に目を向けはじめたのである。
 「たとえば杖立温泉(熊本県小国町)では、一夜で200万円の売上がありました。それを見てたいしたもんだ、こっちも何とか真似したいものと考えたものです。 当時の観光客は、博多までやって来てそこから長崎の方へ回り、阿蘇から別府に帰っていく。そういうのが一般的な流れだった。いわゆる”西回り”のコースですね」
 杖立温泉もその途上にあたり、阿蘇に寄って別府へと帰るパターンだった。その流れが「40年代になると、流れが逆回りになるんです」。昭和39年10月、「やまなみハイウェイ」の開通である。
 「別府に上がって、あるいは関門から別府に来て、やまなみを通って阿蘇から熊本へ行くというような、今度は”東回り”に変わったんです」と井さん。
 「想像以上にお客さんが流れてくるわけですよ。その流れ具合を見て、何とか一晩産山に泊まってもらいたかった。 ここの山菜料理は昔ながらの伝統の味がありましたし、その味をみんなに食べてもらおう。池山水源の自然美と合わせて満喫して帰ってもらおう。 そう思ったところから、すべては始まったわけです」
 井さんは自らの思いを村長に直訴。やまなみハイウェイが近いことから「田尻でやってみたらどうか」という回答を得た。 そこでさっそく希望者を募った。地区70戸に声をかけ、12戸が賛同してくれた。 昭和47年4月には産山村民宿組合を設立  そうして同年9月に8戸(4戸は家庭の都合などで断念)が足並みを揃えて民宿がオープンした。
 宿泊の申し込みはハガキでのみ。組合でまとめて受け付けて8軒に割り当てた。そのため月1回の会合を持って、調整していった。 しかし組合は作ったはいいが、接客にはずぶの素人。試行錯誤が続いた。
 免許は「簡易宿泊所」として取った。食品衛生法がかなりの難問だった。「衛生面の失敗は廃業につながりますから」。
 幸い阿蘇の保険所に井さんの同級生がいた。さまざまな助言を受けつつ、映写会なども開いて衛生面の知識の向上を図っていった。
 料理はむろん山の幸が中心だった。ヤマメの塩焼き、漬物、鶏の炊き込みご飯、山菜の煮しめ、豆腐、吸い物、おはぎなどなど(なかでも漬物の品数はその後増えつづけ最低でも10種類以上、目下民宿村の売りの一つとなっている)。
 施設面は「なるべくお金をかけないで」が共通の認識だった。それでも改築などで資金が必要なものは商工会、農協を通じての借り入れを行った。 うちの場合は手を加えずそのまま行きました。表座敷2部屋で対応しましたが、まだぽつぽつしかお客さんがなかったものだから、食事は家族も合わせて全員で会食しました。 ところが人数が次第に増えてきますと、そういうわけにもいかなくて。お客さんも出発時間とか食事の時間の希望が違ってくるし。 その後どの家も部屋が足りなくなってみんな増改築していくわけです」
 常連が付きはじめたのも大きな要因だった。
 「正規の申し込みに加えて常連さんが申し込んでくるわけです。部屋がいっぱいでもこれがなかなか断れない。 さらにその宿泊日がどうしても土・日曜日に偏ってしまう。 農家の古い家だから家屋自体は大きいし、子供たちも独立して出て行き空き間があったにもかかわらず、足らなくなったわけです」
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